墨の芸術性を求めて 
木村重信
  •  戦後、欧米の画壇において東洋の書にたいする関心が高くなった。まず、作者の感情を黒一色に託してあらわす、その直裁かつ純粋な表現方式がかれらをとらえる。そして微妙な材質感の和紙と、深い味わいをもつ墨色。それは「白と黒との抽象的な交響楽」(ル・モンド紙)であり、「墨の濃淡と、紙の色にしたがって明暗の対象が無限に変化する絵画」(アール紙)であり、「それが発生し、不屈に習練されている国々において、西欧的な理解での〝芸術〞から区別されるにしても、ヨーロッパ人の眼にとっては、極東の書は絵画としてみえる」(フランクフルト。ルンドッシャウ紙)。
     
     わが国の書や水墨画の衰退が言われてから既に久しいが、これはひとえに書家や水墨画家の怠慢による。かれらの多くは現代における世界の美術動向に意識して眼を閉じ、モダンアートと書ないし水墨画との引き離しをはかるが、そのような過程で、それらの伝統美も失われた。なぜなら、伝統とは故意に求めるものではなく、おのずからあらわれるものであり、現代意識のないところに伝統は存在しないからである。
     
     こんなことを言うのは、ほかでもない。山路梓さんがきわめて現代的な書をつくり続けてきたからである。それは彼女がみずからの領域をせばめることをせず、即物的なモダンアートの動向に即しようと努めたが故である。もとより、彼女は書家であるから、あくまでも文字を場所として発想している。つまり、文字を主体の外に置いて対象化するのではなく、紙面は文字を動きの中に取りこみ、文字において自己を生き、その主体の動きが結果として紙の上に墨の跡を残すという、一元的な態度をとる。
  •  

  •  しかし彼女のえらぶ語句は、他の多くの書家がえらぶ有名な漢詩や和歌とは異なる。ごく日常的に用いられている普通の言葉、例えば「薔薇」「雪片」「甕の中の水」とか、「倫敦」「巴里」「紐育」「羅馬」などの都市名とか、ときにはスパイ小説中の気に入った語句とか。そしてこのことが現代的なデザインへの接近となり、早川良雄さんとのコラボレーションによるカレンダーを製作したりした。その背後には、書にはもともと記号的要素があり、書の線自体がイメージ性とは異なるサイン的性質をもつという認識が彼女にあるからである。
     
     このように山路さんは、多くの書家に濃くあらわれている唯心的態度から脱却することによって、モダンアートの造形の根本問題に挑戦した。多くの書が床の間の単なるアクセサリーに堕しつつある現在、彼女が墨の芸術性を求めて、即物的傾向のモダンアートの発展に寄与したことを喜びたい。

    (美術評論家)