書への想い
山路梓
山路梓
現在、漢詩を読みこなす人など殆どいなくなったのに、展覧会の大きな会場には、同じように書かれた漢詩の条幅がズラリと並んでいて、人々はその前を何室も何室も作品も見ずに足早に通り過ぎていくだけです。
その反面、大昔の高僧の書など、写真で見てさえ、その時代の息吹を強く感じます。けれど今、その人たちの『書』を真似てみても、それらを超えることは絶対に不可能です。それはわたしたちが、その人たちの持っていた時代背景を持っていないからだと思います。わたしたちは先人の遺したものからその真髄を学びとり、そのうえでこの現代に生きている自分というものの感覚を表現したものを書くべきだと思います。そしてそれらの中のすぐれたものだけが、またあとあと古典として生き遺っていくのではないかと考えます。
インターネットなどの技術は今後もますます発達していくでしょうが、書はその対極にあるものと捉えています。掌に乗るほどの小さな画面に軽く指を触れるだけで、殆どの欲しい情報が即座に提供される。事務的で繁雑なすべての事が一気に解決される。また、視点を変えれば長く病床にある方々が、小さな魔法の画面からどれほどの大きな慰めや楽しみを受けておられるか、計りしれないものがあるでしょう。
友人とのメールのやりとり、また知らない人との場合もあるようですが、そんなときの情緒のない短い言葉の応酬、語彙の貧しさ・・・。どうか便利さと不便さを上手く使い分けて欲しいと思います。そうでないと創造主が創られた人間の頭の中の脳はどうなっていくのでしょう。ああでもない、こうでもない、と考える事をやめてしまった脳は退化してしまうのではないでしょうか?
易きに流れるのは人の常ですが、せめてプライベートの時ぐらいは、もうすこし余裕をもって丁寧に、人間らしい人との接し方を取り戻していただきたいと思います。
大都会では今後も無機質な広い建築物が増えていくでしょうが、その中にあっても人間としての温かさや豊かさを表現したいものです。その広い壁面に究極の色彩である白と黒からなる「書」と「日本のこころ」が加われば、見る人の気持ちをどんなにか和ませ、落ち着かせてくれることでしょう。
わたしも充分に齢を重ねましたが、元気で命ある限り美しい日本語を守り、右手の指を大切にして筆を持ち続けたいものと願っています。
平成二十六年十一月一日